だんじりの由来

久世のだんじりは、天保13年(1842年)、津山藩郷中御目中「壇尻久世弐ツ」出すことを許す旨の記載があり、江戸後期に登場します。

久世は、享保12年(1727年)から90年間幕府直轄地の“天領”でした。文化14年(1817年)、津山第7代藩主松平克孝が11代将軍徳川家斉の14男斉民を養子に迎え、久世は再び津山藩の領地となったことから、津山の「担ぎだんじり」を模したと思われます。

御神輿のように担いでぶつけ合っていたことからケガ人が絶えず、大正中期、四輪馬車に担ぎだんじりの宮を乗せ、コマ(砂利輪)のつくだんじりが今日の原型です。

大正時代「担ぎだんじり」中川橋にて

昭和30年代まで、町の中心を流れ瀬戸内海に流れる“旭川”で物資運搬など交通として使われた高瀬舟に由来しだんじりは舟形で、舵取りはだんじり前方の“てぎ”で方向転換を行います。

舟形の枠の中央部に唐破風屋根を四本柱で支える“宮”が載せられ、日中は宮の四方に笹を取り付け旗や紙テープで賑やかに化粧し、宮幕や提灯など飾ります。「だんじり喧嘩」の時は、数個の提灯を残して幕などは取り外します。

「担ぎだんじり」からコマのだんじりへ移行した大正中期から昭和初期頃までは、相手だんじりを壊そうとぶつけ合うだんじり後方を鋭角にし、簡易的な鉄が取り付けられました。戦後、攻撃と防御を兼ね備えた鉄武装へと久世独特の進化を遂げ、今日は「だんじり喧嘩」に勝敗はないものの、ぶつけ合う先端の突先は相手だんじりの側面を突き刺そうと尖っています。

昭和10年代「中央社」

だんじりの各部名称

舟形のだんじりとコマ(砂利輪)の各部名称


「だんじりの各部名称」(PDFファイル)

だんじりの社名社紋の由来考察

久世だんじりの名称は「〇〇社」と漢字三文字目が“社”で、これは氏子のだんじりを示すと言われます。また、だんじりのシンボルとして社紋が使われています。

江戸後期から昭和初期にかけ創建されただんじりは、社名と社紋の由来がはっきりしておらず、江戸後期の時代背景や牛市と宿場町で栄えた久世の地域性を鑑み、社名社紋の由来を考察しました。


「だんじりの社名社紋の由来考察」(PDFファイル)

だんじりの紹介

上王社

かみおうしゃ

久世だんじりで最も古い歴史といわれる。現在のだんじりは、昭和63年飛騨高山の宮大工により新調。社紋は、表紋の桔梗に”上”と裏紋の車に”西”の重ね紋。

西親社

せいしんしゃ

大正12年製作のだんじりを平成17年まで使用。平成18年新調。社紋の亀から”どんがめ”の愛称で親しまれている。

中央社

ちゅうおうしゃ

昭和61年再建。昭和22年製の砂利輪は、現在も使用。社紋の車に”モト”は、最初にコマをつけたことから由来。

朝陽社

ちょうようしゃ

昭和63年新調。社紋は桜に”ひ”の字。町の東に位置し朝日の”ひ”をとる。別名「日の出組」の愛称で親しまれている。

東明社

とうめいしゃ

先代は昭和2年製作。平成19年新調。社名は陽が上る東のだんじりから由来。社紋は表紋が桜に東。裏紋は龍の爪紋。

榮朝社

えいちょうしゃ

昭和3年製作。表紋は桜に”榮”。裏紋は栄町が芸者町であったことに由来して扇子に”さ”。

惣髙社

そうこうしゃ

昭和54年参加。平成7年喧嘩だんじりとして”だんじり喧嘩”に参加。表紋は桜に”惣髙”。裏紋は高瀬舟の波止場があったことから八重桜に高瀬舟。

若王社

わかおうしゃ

昭和58年新製。平成7年喧嘩だんじりとして”だんじり喧嘩”に参加。社名・社紋は若王神からとる。

泉朝社

せんちょうしゃ

昭和63年朝陽社のだんじりを譲り受ける。平成7年よりだんじり喧嘩に参加。社名は氏神朝日神社の”朝”をとり、社紋は桜と水の流れの3本の線をイメージしている。

麗新社

れいしんしゃ

平成6年女性だんじりとして登場。